北海道の薬害エイズ北海道の薬害エイズ

薬害エイズとは、 1980年代にHIV(ヒト免疫不全ウイルス、いわゆるエイズウイルス)が含まれるアメリカの血漿を原料とする非加熱濃縮血液製剤によって、日本の血友病患者の4割にあたる約2,000名がHIVに感染させられた薬害のことです。またその患者から二次感染した人も薬害エイズの被害者に含まれます。

血友病という病気は母親から 引き継がれる遺伝子によって、あるいは突然変異によって引き起こされる遺伝性の疾患です。出血が止まりにくく、特に頭部や腹部の出血を放置すれば死に至る場合もありますが、日常的には関節内出血が多く、安静にしたり冷やしたりすることによって自然に治癒する場合もあります。第八血液凝固因子欠損の血友病A、第九因子欠損の血友病Bがあり、欠損の程度によっても症状は異なります。欠損因子によってはその他に数種類の類縁疾患が存在します。

血友病の治療は欠損している血液凝固因子を補填することによって行われます。肉親からの新鮮血の輸血、新鮮凍結血漿の輸注、クリオ製剤、非加熱濃縮血液製剤、そして現在では加熱製剤や遺伝子組み換え製剤へと、血友病の治療は時代によって変遷してきました。薬害エイズは非加熱の輸入濃縮血液製剤によって引き起こされました。この製剤はアメリカの売血を原料につくられていました。二千人から二万人の血漿をプールしてつくるので、その中に一人でもウイルス感染している人の血液が入れば、すべての血漿にウイルスが含まれることになったのです。

アメリカでは1980年頃から、 同性愛者の間でカリニ肺炎やカポジ肉腫を発病してやがて死に至る「奇病」の存在がささやかれていました。1982年にCDC(国立防疫センター)はこの病気を原因不明のまま、AIDS(後天性免疫不全症候群)と名づけました。血友病患者や注射針の打ち回しをしている麻薬常習者にエイズが発症したことから、病原物質は輸血や血液製剤を介しても感染することが次第に想定されるようになり、1984年にはHIVつまり略称エイズウイルスが発見されました。当初は、感染した血友病児童が登校を拒否される、住居を焼かれるなどの激しい差別が起こりました。

その頃日本の血友病患者は、アメリカからの報道を息をひそめて見守っていました。患者会の集まりには複数の製薬企業の担当者が参加し、製剤の売り込みが行われていました。1983年には自己注射が認可されました。自己注射とは、ある量の製剤をまとめて病院から受け取り、出血が起きた場合には自分で、あるいは患者が幼い場合には母親が、家庭で注射を行う治療システムです。出血予防を考慮して医師が推進したこともあり、自己注射は製剤の大量使用の道を開くこととなりました。その当時、血液製剤に危機意識を持つ患者は少なからずいましたが、製薬企業や医師から「心配ない」という言葉を聞き、自らを納得させようと努めていました。しかし、忍び寄ってくるエイズの影をひと時も忘れることはなく、血友病の患者会は緊急に安全な製剤を作るように厚生省に要望したのです。

この年、厚生省にエイズ研究班が 設置され、血友病治療の第一人者である帝京大の安部英教授が班長に就任しました。しかし、研究班は危険回避の措置を一切とりませんでした。安部氏は、当時の血友病患者の血清を保存し、後にHIV抗体検査を行いましたが、患者にはその情報を知らせず、「告知」をしないことを全国の血友病医にすすめました。そのため母親の針刺し事故や、配偶者への二次感染が広がるという二重の悲劇を生むことにもなりました。安部氏は非加熱製剤の危険性を認識していたにもかかわらず、非加熱製剤の投与を継続し患者を死亡させたとして業務上過失致死罪で逮捕されました。また加熱製剤の治験にあたって製薬企業間の「調整」をはかった疑いももたれています。

米国トラベノール社(現バクスター社)の製剤を日本で 1983年に自主回収したことについてはもちろん、アメリカでの加熱製剤の開発など、厚生省は非加熱製剤の危険性についてあらゆる情報を得ていたと思われます。それにもかかわらず、厚生省は何ら有効な手を打とうとはしませんでした。加熱製剤が認可されたのはアメリカに遅れること2年4ヶ月、1985年7月のことでした。その間アメリカで販路を絶たれた非加熱製剤は日本で大量に消費されることになりました。厚生省は加熱製剤認可後も非加熱製剤の回収の指示を出さず、1988年まで非加熱製剤が使われた記録が残っています。

1985年、日本の第1号患者の認定には 意図的に同性愛者が選ばれ、厚生省のある官僚が「軟着陸」と呼ぶ政策、すなわち厚生省の血液行政の失敗と製薬会社の責任を隠蔽する政策はみごとに成功しました。さらに1986年から87年にかけて、フィリピン女性の妊娠を伝える松本事件、日本人女性の第1号感染を伝える神戸事件、感染した主婦の妊娠を伝える高知事件など、マスコミを介してエイズパニックが演出され、患者団体の強い反対にもかかわらず88年に「エイズ予防法」が国会で可決されました。こうしてHIV感染者は見えない壁によって社会から疎外されていきました。確かにハンセン病患者のように施設に隔離されることは免れましたが、これ以後感染者は社会から抹殺されたと言うことができます。ある者は進学をあきらめ、ある者は職場を追われ、多くの者がひっそりと死んでいきました。日本の感染被害者はおよそ2,000人、その多くが若者たちでした。

しかし、被害者は いつまでも沈黙を強いられているだけではありませんでした。1989年には東京と大阪で、国と製薬企業5社を被告とした提訴が行われました。東京HIV訴訟の第一次提訴は14名の勇気ある原告により始められました。プライバシーに配慮し、原告番号で呼ばれる裁判史上例のない匿名の裁判でした。国や企業は責任を認めず、「製剤は患者にとって命綱であった」「予見不可能であった」などと主張し強く抵抗しました。医師をはじめとする専門家の協力を得ることは難しく、社会的な支援もなかなか広がりませんでした。しかし、原告本人が法廷や病床で語り始めたことが、法廷と社会の扉を開くきっかけになりました。ついたて越しに語られた証言は多くの人の胸を打ち、1995年、東京・大阪HIV訴訟は結審しました。

この年、川田龍平が実名を公表し、 マスコミに登場することによって、HIV訴訟のイメージを一新し若者の共感を得ました。7月には厚生省を取り囲む人間の鎖、10月のラップパレード、12月の全国統一行動など矢継ぎ早に支援行動が計画され、社会的にも理解と怒りの輪が広がっていきました。東京の「支える会」はすでに全国から多くの会員を集め支援活動をしていましたが、この頃地方にも同様な市民運動が広がっていき、「北海道HIV訴訟を支援する会」の活動も同じ頃から活発化しました。1996年2月には原告団自ら3日間にわたる厚生省前の座り込みを行い、最終日には菅直人厚生大臣が法的責任を認め原告に謝罪しました。同年3月29日には和解が成立し、その内容は被告の加害責任を全面的に認め、実質的には原告の勝訴といえるものでした。「歴史的な和解」と言われる所以です。

北海道では1996年6月に札幌地方裁判所において地元提訴が行われ、翌年10月の第9回期日で北海道HIV訴訟は一応の終結をみました。この間、札幌地裁で和解した原告は62名、その内23名がこの時すでに亡くなっていました。また初期に東京地裁に提訴した北海道の被害者は7名であり、内2名が亡くなっていました。北海道では80年代の嵐のようなエイズパニックの時にも、血友病の患者・家族の会「道友会」は細々とではあるが活動を続け、被害者の訴訟の参加に力を尽くしました。また「北海道難病連」の存在は大きく、原告と支援者との交流が「北海道難病センター」を軸として活発に行われてきました。。

その後訴訟は終結し1997年に 原告団は和解金の一部を拠出して、自らの恒久対策を実現するために「はばたき福祉事業団」を設立し、北海道にも支部事務所を開設しました。また1995年を境にエイズの治療法は画期的に進歩しました。新薬が次々に開発されている現在では、もはやエイズは死に至る病ではありません。恒久的な医療体制を支えていくために、全国にブロック拠点病院が選定され、道内では、北海道大学病院、札幌医科大学病院、旭川医科大学病院の3病院がブロック拠点病院に指定されました。

薬害エイズが医療界や一般社会に 及ぼした積極的な影響は計りしれません。しかし、そのために払った犠牲は余りにも大きかったのです。二度と薬害を起こさないために、私たちは何ができるのでしょうか。